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ブッダに学ぶ ほんとうの禅語 アルボムッレ・スマナサーラ(著) - アルタープレス
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ブッダに学ぶ ほんとうの禅語

四六判
224ページ
並製
定価 1,900円+税
ISBN
978-4-910080-02-4
Cコード
C0015
一般 単行本 仏教
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2020年2月10日
書店発売日
登録日
2019年10月18日
最終更新日
2020年2月4日
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紹介

〈禅の言葉〉の本当の意味を知っていますか?
 「一期一会」「天上天下唯我独尊」「日日是好日」……数ある〈禅の言葉〉は、あいまいで一見謎めいているため、ともすると各人の勝手な解釈によって、まったく仏教本来の教えと異なる意味にとられてしまうことがあります。禅の修行者たちがこれらの言葉に込めたもともとの思想はどんなものだったのか?
 本書では、もっともブッダの教えに近いとされる「テーラワーダ仏教(初期仏教)」の伝道者、スマナサーラ長老が、禅語の“本当の意味”を鮮やかにひもときます。

[目次]
はじめに――禅とテーラワーダ仏教 

一 悟りの響き

不立文字:俗世間的な知識だけではいつまでたっても心は成長しない
坐禅:ただ足を組むことだけが修行なのではない
修証一等:悟りの境地から見たら、すべての現象は同じ
只菅打坐:妄想を止めて、ただ坐ってみる
身心脱落:執着を捨て去り、主語が消え失せた世界へ
眼横鼻直 空手還郷:「目は横に付いていて、鼻はまっすぐ」に気づいているか
仏道をならふといふは、自己をならふ也:「自己」を学びつくした者に見える世界とは
日々是好日:常に「今」を生きる、悩みと縁のない生き方 
一期一会:すべては一度きり。瞬間、瞬間の出来事に真剣に取り組む
前後際断:あらゆる現象はそれ自体で完結している
不昧因果:「原因」を作ることを止めた人がたどり着く、真の安穏

二 修行の声

至道無難 唯嫌揀択:好き嫌いをするから、生きにくくなる
百尺竿頭須進歩:「自分」を捨てて、一切の執着を捨てる
一日不作 一日不食:でも、「飯を食べるために働く」になってはいけない
出世間法:苦を乗り越える、本当の教えとは
公案:ブッダが教えた真理を自分自身が納得できるか
隻手音声:打たない片手の音とは 
狗子仏性:一つの公案が解けたら、全部の公案の答えが見えてくる
東山水上行:俗世間の見方の反対こそが正しいと発見する
喫茶去:今の瞬間でやるべきことだけを行う人間になれ 
廓然無聖:「自分」という箱をこじ開けて見てみたら…… 
万法帰一 一帰何処:すべてのサイクルから抜け出る

三 禅語からブッダの言葉へ

天人師:ローカライズされたものではない、普遍的な真理とは
天上天下 唯我独尊:自分と等しい者がひとりもいないとわかった者の孤独
拈華微笑:「ブッダは言葉で真理を語らなかった」は、本当なのか?
色即是空:実体を探そうとすると、何も見つからなくなる
見色明心:心が物質世界に束縛され、依存していることに気づくと……
本来無一物:目覚めた人には執着が成り立たない 
洗面:心をきれいにする 
春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり:ありのままに観察することの難しさ 
莫妄想:苦の世界から解放される特効薬
放下著:「捨てること」も捨ててみる 
諸悪莫作 衆善奉行:「善をする」ではなく、「善になる」をめざす 

あとがき

ブックガイド  

目次

本書について

はじめに――禅とテーラワーダ仏教 

一 悟りの響き

不立文字:俗世間的な知識だけではいつまでたっても心は成長しない
坐禅:ただ足を組むことだけが修行なのではない
修証一等:悟りの境地から見たら、すべての現象は同じ
只菅打坐:妄想を止めて、ただ坐ってみる
身心脱落:執着を捨て去り、主語が消え失せた世界へ
眼横鼻直 空手還郷:「目は横に付いていて、鼻はまっすぐ」に気づいているか
仏道をならふといふは、自己をならふ也:「自己」を学びつくした者に見える世界とは
日々是好日:常に「今」を生きる、悩みと縁のない生き方 
一期一会:すべては一度きり。瞬間、瞬間の出来事に真剣に取り組む
前後際断:あらゆる現象はそれ自体で完結している
不昧因果:「原因」を作ることを止めた人がたどり着く、真の安穏

二 修行の声

至道無難 唯嫌揀択:好き嫌いをするから、生きにくくなる
百尺竿頭須進歩:「自分」を捨てて、一切の執着を捨てる
一日不作 一日不食:でも、「飯を食べるために働く」になってはいけない
出世間法:苦を乗り越える、本当の教えとは
公案:ブッダが教えた真理を自分自身が納得できるか
隻手音声:打たない片手の音とは 
狗子仏性:一つの公案が解けたら、全部の公案の答えが見えてくる
東山水上行:俗世間の見方の反対こそが正しいと発見する
喫茶去:今の瞬間でやるべきことだけを行う人間になれ 
廓然無聖:「自分」という箱をこじ開けて見てみたら…… 
万法帰一 一帰何処:すべてのサイクルから抜け出る

三 禅語からブッダの言葉へ

天人師:ローカライズされたものではない、普遍的な真理とは
天上天下 唯我独尊:自分と等しい者がひとりもいないとわかった者の孤独
拈華微笑:「ブッダは言葉で真理を語らなかった」は、本当なのか?
色即是空:実体を探そうとすると、何も見つからなくなる
見色明心:心が物質世界に束縛され、依存していることに気づくと……
本来無一物:目覚めた人には執着が成り立たない 
洗面:心をきれいにする 
春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり:ありのままに観察することの難しさ 
莫妄想:苦の世界から解放される特効薬
放下著:「捨てること」も捨ててみる 
諸悪莫作 衆善奉行:「善をする」ではなく、「善になる」をめざす 

あとがき

ブックガイド  

前書きなど

はじめに

――今回は、日本人に馴染み深い「禅」をテーマにして、禅の言葉を使ってスマナサーラ長老に仏教の真髄を教えてもらう、という本を作りたいと思っています。
 最近たまたま読んだ禅の本に、山田無文(一九〇〇~一九八八年)という有名な臨済宗の老師が「禅語というて特別なものがあるわけではない。わしならば聖書でも毛沢東語録でも提唱(禅の講義、説法)に使える」と豪語した言葉が引かれていました。実際に、禅語と呼ばれるようなものは仏典以外を出典とするものが多いそうです。つまり、仏典以外のものも禅の視点で解釈して禅語にしてしまうということがあるようなんですが、そうであるならば、長老に初期仏教の視点で禅語を提唱していただくということも面白いのではないかと思った次第です。

 なるほど。でも、そんなふうにうまく行きますかねぇ……。とりあえずやってみましょうか。

禅もテーラワーダも「悟り」を強調する点は同じ

――最初に、スマナサーラ長老が禅語というものをどのように捉えていらっしゃるのかお聞きしたいと思っております。長老は大乗仏教についてケチョンケチョンに貶すことが多いですが、道元禅師(日本曹洞宗の祖。一二〇〇~一二五三年)をはじめとして禅の老師の言葉を時折、法話などでも使われておりますし、禅仏教にかぎってはかなり好意的に受け取られているように思います。そのあたりのことは、どうお考えでしょうか?

 私は、禅仏教は私たちがやっている初期仏教(テーラワーダ仏教)と同じものなのかな、というふうに見ています。禅宗のしきたりや習慣などを見てもそんなに驚かないし、ごく普通に自然に映るのです。もっとも、タイ、ミャンマー、スリランカなどのテーラワーダ仏教の国々の人から見ると驚くところもあるかもしれませんが、みんなが驚くポイントというのは、文化という衣装の部分なんですね。
 文化というのは人間が被っている衣装です。衣装がなければ人前に出られないでしょ? 衣装なしにいられるのはお風呂場ぐらいですね。ですから、衣装を見て驚いてしまうんですね。もっとも、どんな衣装を着ても、中にいるのは人間ですが。
 そうやって、禅という衣装で驚く、テーラワーダという衣装で驚くということはあります。
 テーラワーダ仏教はもう二千五百年以上の古い歴史がありますから、衣装はしっかりしています。禅もかなり古い伝統を持っています。そして、文化を脱いで衣装の中にいる人間を見れば、ブッダの教え、心についての教えや人間の心の悩み苦しみというのは、衣装を変えたからといって変わるものではありません。
 たとえば、子供が言うことを聞かない。それでお父さんが衣装を変えようとして、お母さんと着ている服を交換したからといって、子供が言うことを聞いてくれるようになるわけではないでしょ?
 禅宗とテーラワーダ仏教の共通するところは、解脱・涅槃・悟りということをすごく強調するところです。とはいっても、禅にしてもテーラワーダ仏教にしても、いろいろなアプローチで社会の中に入り込む。たとえば禅文化というものがありますよね。日本文化といえば、ほとんど禅寺で出来上がったものと言ってもいいでしょう。茶道にしても華道にしてもいろんなものが禅をルーツにしている。日本の舞踊にしても何らかの仏教の影響があるし、手の仕草など微妙に気をつけて行うところも、やはりそれは禅の思想から来ているものなんです。

仏教は西洋の俗世間的な価値観を否定する

 禅とテーラワーダは、解脱を目指して俗世間とは関係ないことを教えていながら、知らないうちに日常生活の中にスーッと入っていく、というところも共通していると思います。
 テーラワーダ仏教の国々では、仏教なしには人間は生きてはいられないというところまで、日常生活の中に仏教が入っているんです。かといって、一般人が解脱を目指して修行している、というわけではない。みんな日常生活に忙しくて、仏教の究極の真理を誰もが理解しているということではない。そういうことに挑戦するというのもなかなかできないし、かといって、そういう一般の人々を除け者にすることはしないで、「あなた方にしても、仏教なしには生きていられないよ」というところまで、仏教が社会の中に戻っていく。テーラワーダ仏教の教えは、きれいさっぱり社会から離れている、いわゆる出世間の教えなのですが、社会は仏教の教えがないと生きていられないんです。
 太陽は地球から遠く離れたところにある、おっかない存在です。しかし、太陽なしに地球の生命は生きていられません。かといって、われわれは太陽のあのすごい迫力を知らないし、持ち帰ることもできないんです。
 そういう感じで、禅宗の教えも、テーラワーダの教えも、人間にとってなくてはならないものというふうにして社会に入っているんですね。
 現代社会になってくると、西洋の俗世間的な価値観だけを教えるようになっています。よく食べて、よく遊んで、美しくおしゃれをして、社会で競争して立場を作って、それから死んでしまえばいいという、シンプルな価値観で生きることが常識になっています。西洋の価値観というのは、樹木を枯らす害虫のように、地球を食って食って食いまくって破壊する、「オレさえ生きていられればいい。金さえ儲けられればいい」ということなんです。
 でもわれわれは、短い六十年七十年の人生でくたびれ果てて、しまいには何もできなくなって死んでしまう。そういう、生きることの本当の姿というのは、あまりハイライトしない。「この地球の上に仮に住んでいるだけなんだよ。ただほんの一時期借りたものなんだから、みんなと仲良く共有して、誰にも迷惑をかけないで自分が得るものを得て、地球と環境と社会に返すものはちゃんと返して、美しく空気のように生きよう」ということは、西洋的な思考にはありません。
 しかし、そういう価値観、そういう生き方を仏教は提案しています。それは現代では崩れているんですが、「そんなふうにわれわれが負けても良いのか」と言いたいんです。
「負ける」という言葉は汚いんですが、逆に、「地球に住むあなた方はこれを学んで下さい。これであなたがたの問題はすべて解決するんですよ」と堂々と言えるプライドを持ってほしいのです。価値観の問題、宗教の争い、テロや自然破壊や政治的な問題とか、それらは生命全体を愛するという仏教の教えによって解決するんです。
 ちょっと脱線しましたけど、禅とテーラワーダはお互い文化的な衣装は違いますが、個人的には、中身はほとんど同じなのではないかなと思っています。

テーラワーダの強みはテキストがしっかりしていること

――ちょっと仏教の教理学的なところに入りますが、禅では「解脱」のことを「悟り(覚り)」と言ったり「見性」と言ったりしますよね。テーラワーダ仏教の場合はわりとシステム的に、預流果・一来果・不還果・阿羅漢果という四段階(四沙門果)をへて完全な解脱に到達すると教えますが、禅の場合には「一直線に頓悟をするんだ」とか、「いや、やっぱり徐々に修行しながら悟る(漸悟)んだ」という話があって、その二つの間で論争があったりして、衣装というよりは本質的な部分で違うところもあるのでは、という気もするんですが、いかがでしょうか?

 簡単に言うと、禅宗にはテキスト(根幹となる聖典)がなかったんですね。
 テーラワーダの強みはテキストがしっかりあることです。ここでテキストというのは解脱に達する道を理論的に示したお釈迦様の指導をまとめた経典です。大乗経典は後世、そのお釈迦様の指導を否定する立場で創作されたものですから、当然、それに依拠して頑張っても解脱というゴールには達しません。その大乗経典を重視した中国仏教では、具体的に仏道を実践することは措いて、延々と形而上学的な議論を積み重ねることが主流になったんです。
 そういう背景のもとで、「仏教とは、議論をたたかわす戦場ではなく、直に解脱を目指すことだ」という禅宗が起こったのです。達磨大師の「面壁九年」は、禅のポリシーを象徴したエピソードです。要するに、「仏教というのはゴチャゴチャした学問ではなく、個々人の心の問題なんだ」と言いたかったんです。
 そもそも仏教の真髄というのは、言葉であらわせるものではありません。解脱・涅槃というのは言葉であらわせるものではない。だから、達磨大師は壁に向かって九年間、ただ黙って坐っていたのだと。「面壁九年」のエピソードで訴えたいポイントは全くその通りなんですが、「では、弟子も黙って坐っていれば悟りますか?」という問題が出てくるんです。
 やはり仏道を完成するためには、お釈迦様のマニュアルが必須なんです。
 それがなかったから、禅宗はかなり苦労しているんです。

版元から一言

ベストセラー『怒らないこと』などでおなじみのスマナサーラ長老による全く新しい「禅の言葉」解説書。
ほとんどの一般読者が“間違って”理解している有名な禅の言葉を、初期仏教の観点から論理的に解説する、目からウロコの一冊です。
本書で解説する33の禅語にはそれぞれ、書家による書き下ろしの墨書も添えられており、目で見ても楽しめる豪華な構成になっています。

著者プロフィール

アルボムッレ・スマナサーラ  (アルボムッレ スマナサーラ)  (

スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945 年4 月、スリランカ生まれ。1980 年に来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事し、ブッダの根本の教えを説き続けている。朝日カルチャーセンター講師を務めるほか、NHK Eテレ「こころの時代」などにも出演。『怒らないこと』(サンガ)、『原訳「法句経」一日一悟』(佼成出版)、『ブッダ 大人になる道』(筑摩書房)、『やめたいことは、やめられる。』(河出書房新社)、など著書数。

上記内容は本書刊行時のものです。