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人生はんど仏句 青木健斉(著) - 燃焼社
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人生はんど仏句 こころのおきみやげ

発行:燃焼社
A5判
縦210mm 横150mm 厚さ17mm
重さ 350g
244ページ
並製
定価 2,200円+税
ISBN
978-4-88978-147-2
Cコード
C0015
一般 単行本 仏教
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2020年11月20日
書店発売日
登録日
2020年10月17日
最終更新日
2020年11月5日
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紹介

 一回しかない人生、一つしかない吾が命。それを助けてくれる多くの方々。少しでもいい、できるだけ共に微笑めるような日々を、一日でも多く作りたいと願って記された、エッセー集。

目次

小僧時代   
思い出   
貪瞋痴   
若い人だって   
人任せでは   
自分勝手 
呼び方 
うるさいな 
無心に唱える 
ルンビニーの昼食
比べるから 
語呂合わせ 
心でっかち 
どう見えるて
一枚の葉書で 
今日一日 
弔電 
叱られるうちに 
限りあるから 
一声かけて 
バチやタタリ 
待つことが 
足し算の人生 
死と逢う 
かんちがい 
抱きぐせ 
つぶやき 
お墓では 
振り返って 
ことぶき 
お経の功徳・お経の力 
戒名(壱) 
戒名(弍) 
戒名(参)
同じ価値感 
唯我独尊 
日の丸弁当 
あの時に 
陰口は退化 
提婆達多 
幸いあれ!saiwaiare! 
出逢いとは… 
併せ持つ 
一本線 
二つの本心 
二度とない人生 
試験管の涙 
叱り方 
前生の続き 
北へ向かう 
吾が娘よ 
怨みを捨てて 
水の如くに 
母の思い出 
誓願 
胎教以前 
言葉のかけ合い 
寒行雑感 
物と者 
落語・二題 
しかも今 
どこかが 
注意二十八 
注意二十八(続) 
ほっと一息 
引っかからない 
色んな人 
疑則花不開  
人間創り 
ことば 
迷信 
その日だけ 
生きてる人を 
なまはんか 
くり返し 
花まつり 
インド紀行(1) 
インド紀行(2)ガンジー翁墓 
インド紀行(3)パトナへ 
インド紀行(4)竹林精舎 
インド紀行(5)王舎城 
インド紀行(6)ご香室にて 
インド紀行(7)ラジギール風景 
インド紀行(8)インド色々 
インド紀行(9)やすい? 
インド紀行(終) 
西天印度 
病院のマナー 
一つの言葉で 
いつとはなしに 
施食 
み仏にふれる 
まわりにいる師 
フシギ・不思議 
子供に 
学ぶ 
つみ重ね 
…の中身 
相互に敬う 
思いやりの心で 
日々好日 
寒行のある日 
父上様 
心の病 
土産の仏像 
ボランティア 
ブロイラー児 
夫婦二景 
縁 
名付け 
春を探しに 
毒語 
適度の緊張 
徳が顔に 
自然の中 
本山霊地 
照るかげる 
ありがたい 
十七文字 
おかげさん 
質直意柔軟 
五戒 
もったいない 
無言の多言 
責任転嫁 
人を飲む 
人を飲む 
磨いたら 
勘違い 
悪たれ小僧 
三階建て 
ご利益 
青息吐息 
十年サイクル 
両刃の言葉 
バンコックの夜 
自分の字で 
礼拝行 
仏天の加護 
お袈裟 
だろう人生 
子供叱るな 
善悪のご縁 
誠意で返す 
会者定離 
花まつり 
スパーク 
何故だ! 
急いだとて 
私の歳時記 
親のまなざし 
名前いろいろ 
タイムリー 
反省します 
母の想い 
愛犬阿修羅 
呼びかける 
思いこみ 
吾が宗教は 
木づくし 
心の年輪を 
福分を頂く 
もっと愛語 
食事の回数 
つまらぬ遠慮 
衣荷食松 
地球号 
当不当八卦 
一人よがり 
父の策略 
自分を発見 
スキンシップ 
パーフェクト

前書きなど

 三重県尾鷲(おわせ)市。紀伊半島の南に位置し、古くから林業と水産業を主産業としている。南北と西の三方を山に囲まれた『雨のよく降る町』として有名な市だ。
 私の師父、青木健斉(けんさい)が、生まれ育った和歌山県田辺市を離れ、隣県の尾鷲市に建つ日蓮宗のお寺、寿延山妙長寺(じゅえんざんみょうちょうじ)の第二十五世(代目)の住職となるべくこの地を訪れたのは昭和四十九年九月十日のこと。
 地図で見ると、紀伊半島の南寄り、およそ東西対(つい)の位置に田辺市と尾鷲市があり、さして距離もないように見えなくもない。しかし、実際にハンドルを握り走ってみると、幾重にも入り組んだ地形の浦村に沿って道が続き、この地が伊勢志摩の誇るリアス式海岸の延長線上に在るということをイヤでも知らされることとなる。
 今でこそ高速道路が延び、国道もバイパス工事が進んだことで直線道路も増え、アクセルを容易に踏むことが出来るようになったが、当時の海岸線を走るには、いかに慣れていても、アクセルよりブレーキペダルを踏む回数の方が多かったに違いない。その行程、約一五〇㎞、時間にして約三時間半。思うようにスピードも出せず、決して楽な道ではなかっただろう。まして、生後六ヶ月に満たない乳飲み子だった私と、母 ひろ子、引っ越しの手伝いとして付いてきてくれた母方の祖母 美濃梅香と共に、乗用車に積めるだけの家財道具をしこたま積んでの行程。今のような引っ越しサービスもなく、その時の苦労と不安感はとても想像し難い。

 かつて妙長寺には横井姓のお上人が住職としていたのだが、話は二十二世・横井龍髯(りゅうぜん)上人の代(明治期)に遡(さかのぼ)る。かつて修行をした同期のお上人の中に田辺市出身の青木上人がいたのだが、このお上人にはお寺の後継者がいなかった。対して、龍髯上人には息子が四人いたらしい。どのような会話がなされたかは分からないが、当の本人の知らぬ間に養子縁組の話は着々と進み、ある日、龍髯上人の次男、鐐齊(りょうさい)少年は言われるがままに父に連れられ和歌山県田辺市にある本正寺の門をくぐる。何も知らぬまま会ったばかりの住職らと共に食事をし床につくが、翌朝、鐐齊少年が目を覚ますと龍髯上人の姿は既になく、その時はじめて養子に迎えられたことを知った…。
 『朝、目を覚ますと父(龍髯上人)を乗せた船はもう港を出た後だった』…と、まるでラジオドラマのワンシーンでも語るかのように、祖父がかつて語ったであろう六歳時分の身の上話を、師父は幼い私に語ってくれたことがある。
 こうして、本正寺は養子となった横井鐐齊=青木泰秀(たいしゅう)上人が跡を継ぎ、妙長寺は龍髯上人の三男、横井龍海(りゅうかい)上人が二十三世を継ぐこととなる。
 ところが、何と皮肉なことか、後年、今度は龍海上人に後継者がいない事態となる…。

 養子となった身とはいえ、祖父 泰秀上人にとって妙長寺は懐かしい生家。祖父は息子達を妙長寺の住職となるよう促し、昭和四十九年に青木健斉上人は妙長寺新住職として新たな一歩を踏み出すことになる。

 今でこそ尾鷲市内で『青木健斉』といえば、『団扇太鼓を叩いて市内をまわる妙長寺の和尚さん』や『お盆の精霊送りにお経を読んでる坊さん』『フリーマーケットや篆刻(てんこく)の展覧会を開いてるおっさん』と幾つかのイメージを伴って、それなりに知名度を持つ人になっている。
 ところが、来た当初はそんな知名度などあるわけもなく、ましてその頃『妙長寺』というお寺の名前も(廃寺になったわけではなかったのだが)世間から忘れられてしまっていた。かつて市外からお参りに来られた方が、タクシーで「妙長寺まで」と頼んだのに、人気のない山奥のお堂の前で下ろされてしまった…などという事もあったという。
 一人でも多くの人に妙長寺を覚えてもらうため、両親はいろいろと奔走したという。例えば買い物の際には『妙長寺』名義でツケにしたり、駅からの帰りにはあえてタクシーを使ったりと、何かにつけて『妙長寺』の名を出すよう試行錯誤したという。

 また、田辺市にいた頃には、檀家・信者の方々と共に寒行(かんぎょう)にまわっていた経験もあり(詳しくは本書内『思い出』を参照)、尾鷲にも同様の風景を根付かせたいと思い、引っ越した初年(昭和五十年一月)から寒行を開始。
 ところが、横井上人の代にはおこなっていなかったのか、おこなってはいたが既に廃れ忘れ去られたあとだったのか。団扇太鼓を叩いてお題目を唱えて歩く若い坊さんの姿に、当初、市内の人々の目は実に冷ややかだった。少年時代からお題目の御加護を頂き、師匠や檀信徒(だんしんと)の皆さんと共に「南無妙法蓮華経」を唱え歩いていれば、ご喜捨(きしゃ)(ご浄財や生米)をいただけていた健斉上人。ところがここ尾鷲の地では、太鼓を打ち鳴らすと何処からか「うるさいっ!」と怒鳴られ、当初は寒行を根付かせるどころではなかった。
 師父の口からそんなときの弱音を聞いたことはないが、自身の生家と尾鷲市とのギャップをひしひしと感じ、何度となく悔し涙を噛み締め、折れそうになる心を奮い立たせ日々が続いたことだろう。
 何年か後、『伜(せがれ)ども』(つまり私たち兄弟)も共に歩くようになった頃から、次第にまわりの印象も変わってきたと聞くが、それでも時折、おばあさんが涙を流して「これでおいしいモンでも食べなよ」とご喜捨をくれることがあり、あとになって師父から「ひょっとしたら、親子の乞食と思われたのかもしれない…」という時もあった。
 いろいろあったが、最初の十年はとりわけ『妙長寺』『青木健斉』を認知してもらうための十年であったのだと思う。

 越してから十年ほど経過してくると幾ばくかの余裕もできてきたのか、各所に出向いての法話に限らず、様々な形での布教を考えるようになる。毎月、妙長寺の檀家・信者向けに通信を発行したり。電話で聴くテレホン法話サービスに登録し、夜な夜な家族が寝静まった頃、玄関に置いた専用のテープレコーダーに向かって法話を録音したり。畳一畳分のベニヤ板に紙を貼り、一筆書いては寺の前にあるガードレールにくくりつけ掲示板伝道とした。
 そんな中、師父は地元新聞『南海日日新聞』紙上でのコラムを連載し始める。タイトルは『人生はんど仏句(ぶっく)』。これまでの自身の体験談や、もの申したい事などを多数書き綴ったものであるが、それが今回、皆様の目に触れる本書の内容となる。
 コラム『人生はんど仏句』はのちに『行雲流水』と改題した後も晩年まで連載を続け、『日蓮宗新聞』内にて執筆したコラム『古碑めぐり』と並んで、師父の執筆上のライフワークであったと言っても過言でないと思う。その執筆熱がファンを生んだか、『人生はんど仏句』製本化の話がいつしか上がり、地元の印刷所で五度、一冊百ページほどの小冊子形式で製本された。その後、五冊を一冊にまとめた本も『こころの春夏秋冬』『このいのちどう生かす』のタイトルで二度製本されている。

 約四十年強を経、根っからのアクティブな性格や、前述の筆まめさ、多趣味なところが市内外を問わず数多くの方々とご縁を結び、尾鷲市に居ては『妙長寺』『青木健斉』『健斉さん』といえば、おおよそ顔が浮かぶくらいの存在となっていった。
 今となってはウソかマコトか知りようもないが、祖父はかつて「『和歌山県 青木泰秀上人』と書いておけば(田辺市の本正寺に)手紙が届いたそうだ」と師父が教えてくれたことがある。口に出すことはなかったが、心のどこかに『(父には)届かずとも、そのくらいのネームバリューに近づきたい」との想いはあったのかもしれない。
 晩年のこと。経緯は知らないが、師父は市内在住の男性から「アンタ、どこのオッサンぞな?」と聞かれたことがあったらしい。余程それがショックだったのか、家族に「自分(の知名度)は、まだまだらしい…」とつぶやいていた。まぁ、それを言わせるほどには十分に市内での知名度は高い人となったし、私も家族もそのくらいの知名度を持った尾鷲の『名物和尚』であると思っている。もし、長年尾鷲市に居て「妙長寺?」「青木健斉?」という方がいらっしゃったら、地元の新聞二紙を過去四十年分読み直して頂きたい。『青木健斉』の名が散見されるはずである。

 時に、保育園の園長や塾を開くなどして教育の現場に接し、
 お盆の夜には、軽トラックの荷台に正座し法話を説き、
 毎冬には、団扇太鼓を片手に市内を寒修行に回り、
 ペンを握っては、地元内外の新聞に記事・コラムを書き綴り、伝道に力を注ぎ、
 心に響く言葉を見つけては、無垢の木の板にその言葉を篆刻(てんこく)し、
 留めたい町の姿を見付けては、その風景を水彩画に収め、
 市内のイベントに併せ、フリーマーケットを開催し、
 場が無いのなら…と、ジャンル不問のコンサートを魚市場で開き、
 被災地を訪れ、憂いては、毎月十一日に町中で団扇太鼓を叩いて唱題し…

 こうして四十年強、青木健斉上人は『皆の心を響かせたい!』との想いを胸に、全力で駆けずり回ってきた。
 しかし、去る平成三十年十一月二十日早朝。身体の異常を訴え、市内の病院に緊急搬送。家族、檀信徒、知友人が一心に回復を祈る中も虚しく、翌二十一日未明、御遷化(せんげ)。七十二歳の生涯を閉じられた。

 今回、師父が約三十年にわたり地元新聞に連載していましたコラム『人生はんど仏句』。過去にも幾度となく製本はされておりますが、今回、生前より深く交流のあった方々の希望もあり、家族・知友人有志のご協力を得まして再び製本の機会を得ました。こうして皆様のお目に触れる機会を再度いただけましたことを大変感謝致します。
 なお、今回の出版に当たり、掲載当時『一行ごとの文字数制限』を理由に漢字・ひらがな表記が統一されてないものや、明らかに説明が不足している内容・表現などにつきましては、原文を損なわない最小限の範囲で修正をしました。また、内容によっては時代に沿わない、あるいは不適切な表現などもありますが、原文を尊重し、そのまま掲載した箇所がございます。あらかじめご了承いただいた上で、お読み下さいますようお願いいたします。

 この本を通じ、在りし日の師父、青木健斉上人の声をお聴き頂けましたら大変嬉しく思います。

著者プロフィール

青木健斉  (アオキ ケンサイ)  (

昭和22年1月、和歌山県田辺市 本正寺の次男として誕生。昭和38
年11月、出家得度。名を泰寛から健斉に改名。昭和46年、立正大
学文学部哲学科を卒業。田辺市立高雄中学校に勤務。美濃ひろ子と
結婚。昭和49年9月、三重県尾鷲市に転居。妙長寺第25世の住職
となる。昭和52年~53年、尾鷲市第四保育園園長として勤務。昭
和61年11月~、保護司に就任。昭和63年10月~平成4年9月、
尾鷲市教育委員会委員に就任。平成11年、中部地方更生保護委員会
委員長として表彰。平成23年、法務大臣表彰を受賞。平成30年5月、
瑞宝双光章を授与される。平成30年11月21日、遷化。世寿72歳。

上記内容は本書刊行時のものです。