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子どもの頃、いつの間にか君の手を握りしめ、僕らは友だちになった。

 いま、紙芝居が大ブーム……。そこまで言えなくとも言えるようになることを目指しながら、4年前からこつこつと紙芝居を刊行しています。そこそこ売れています……。いやそうまで言えなくともけっこう評判がいいという感触はあります。ではどこで評判がいいのかというと、小学校の教材など子ども向けの市場ではありません。私たち雲母書房は介護関連の書籍を中心に刊行していますが、その高齢者に向けた介護現場のレクリエーションツールとして、そこそこ評判がいいみたいなのです。 (さらに…)

なぜ、威張るのか?−威張る人(団体)の法則

 今回の日誌こそは、『本の未来』『出版に何が起こっているのか?』など、やはり出版人なら書くべきだろうという事柄や、自社の新刊に即した事柄を書きたいと思っていたのですが、根っからの筆不精のため、またも挫折してしまいました。
 ですので、今回も普通に日誌を書かせてもらいます。会社案内、既刊、新刊、出版傾向などは小社のホームページにてご覧いただければ幸いです。 (さらに…)

出張、旅、そして遅読のすすめ

『出張、旅、そして遅読のすすめ』

 鳥取砂丘が見たい!随分と前から思っていた
 砂漠 砂丘 砂 砂の隠喩
 その願望は安部公房の『砂の女』に始まる
 砂は風に舞い 手からさらとこぼれ

 けれどその 軽やかさ という性質は 砂のポーカフェイスな戦略であり より決定的な性質は水気を含んだ時に露出する
 凝固し締めつけ対象を引きずり込み 蝕む 気づいたときには既に遅く 肉体も精神もそこから脱出できない しない
 軽やかさと粘着 移り気と性的粘着

 などと格好つけた事を書いていますが じっさい僕の砂丘願望は 独身男の恋愛および結婚願望なのではないかと それでもって山之口貘さんのように つかんだあ (『もしも女を掴んだら』より) というような勇ましい歓喜願望というよりは 昨今の軟弱で浪漫チックと勘違いしている乙女チックなソフトマゾ的 裏を返せば攻撃的サディな男たちの あなたの男にしてください という情けなくかつご迷惑な願望なのであります はい

 さて 性格的に出不精で運命的に金欠なる僕の 砂丘を見たいという願望はようやく今の勤め先での出張にてかなうのです 業務命令は鳥取ゴー
 はて 車を走らせるのですがどこまで行っても緑の山
 僕の 心 の鳥取は県全体が砂漠 数時間も歩きつづけること みずー みずー とつぶやけば だめ押しぶでぇーんと 関取(鳥取取)砂丘 が立ちふさがり 絶失望とともにその場で気を失い倒れ砂に埋もれてゆく    そんな甘美な自滅願望を満たしてくれる場所と思いきや 緑に囲まれた【鳥取砂丘はこちら】という標識に従い【鳥取砂丘駐車場】に車を停め 緑の木々をくぐり抜け目の前に百八十度の眺望とともに現れたのは!    海    ちょこんと砂丘
 とりあえず砂場に降りつらつら歩きつら登り右向いて左向いて前向いて海の喫水線を眺めながら煙草に火を付け一服 おもむろ後ろ向いてとぼとぼ黙々時化木もと来た道を引き返す さてホテルに戻って明日の仕事の用意をしよう あぁ 長年ため込んでいたおいらの文学的妄想がひとつ消えたなぁなんだか寂しいなぁこれって出会い系サイトに似ているなぁ だまされたー

 出張は旅
 もちろん仕事をしっかりとこなすことが前提ではありますが 旅心のない出張はつまらない
 一期の出会い つめたいあたたかいさびしい一会
 旅は人が稀人になれる時
 近頃 飛行機や新幹線のチケットが驚くほど安い 車で行くより安くて時間も取れる
 出張も泊まりから日帰り曲線から直線へ そして旅がぬけてゆく
 小説の速読 あるいは手短に読める あらすじだけの小説のような味気なさ
 寂しいものです それが現代
 夕陽
 地平線の直線と太陽のゆったりとした曲線との間のまばゆい空間 それが旅 読むこと

 強引な結論ですがこの秋 遅読をおすすめします
 
 主人公のせつなさに引きずり込まれ一気に読み気づいたら朝でした
 というより 気づいたら年開けていましたぐらいな

『心のノート』へ心からのシャウト

・ヤフーで【心のノート】と検索してみたら、NECのパソコン直販店のサイトが1位、2位に富士通のノートパソコンへのサイトでした。(まずは版元ドットコム的感想)

 『汝、殺す事なかれ』『汝、姦淫するなかれ』『盗みを働いてはならない』・・・・・・。
世界の多くの宗教がこうした戒律を定めている。しかしながら、一部の宗教を除いて多くの宗教は行為規範に限定して戒律を定めている。名前は忘れましたが、ある禅宗の高僧が修業時代、座禅をするにはするのだけれど、どうしても悶々としムラムラが消えず次から次へと邪なことが浮かんできてしまう。多分、根がとても助平なのだと思いますが悩んだ末、師匠に相談したところ『喝!』ではなくて『ええんじゃない』みたいなことを言われて(ええの?)と開き直り、妄想が自然と浮かんでくるのに任せ、となると自分は安心して水底へ沈んでいき、とうとう悟りの境地に至ることができたという逸話がありました。

 文部科学省が作った『心のノート』、長引く不況とはいえ何も国に支給してもらわなくても1冊くらい、親ごさんに買ってもらっても差し障りはなく、かつ無印のノートは100円(問題はどこまで消費税が上がるかだが)である。しかも『心のノート』には、ほんわかとしたファンタジー的印刷物で一杯で余白が極端に少なく、「書き込みできへんやんか!」と子どもでなくても、言いたくなります。

 さて、『心のノート』について、小社の季刊誌『子どもプラス Vol.16』(04年2月刊)にて特集を組みました。その中の「不気味さの正体」(芹沢俊介×斎藤次郎)で、斎藤次郎さんは代名詞の問題をあげています。このノート(特に1・2年用)は「あなた」という呼びかけで始まり、その後この人称代名詞が使用され続けます。また「僕」や「私」といった一人称は事例としてのエピソードや文章に限られます。そして正式に「わたし」という言葉が使われるのは、最章のタイトル「あなたがそだつまち」に添えられた「わたしをそだてるまち」という言い替えにおいてです。この「あなた=わたし」という受動的な呼び掛けから、能動的な一人称へとすり替えていくところに『心のノート』の不気味さや危うさがあるのだと斎藤さんは指摘します。
 まさにその通りで、道徳教育という眉唾ものをオブラートしている事柄、そこが「『心のノート』ノー」と言わせたくなる要因のひとつなのです。
 さらに言うならば、そのすり替えを保証するものとして文体の当然口調があげられます。例えば「中学生だもの自分で考え判断し実行するのはあたりまえ」(中学校用、23頁)や「正直に生きることは、自分の心を明るくします」(小学3・4年用、28頁)などです。
 また、戦時下の独裁、オウムのテロリズム、そして『心のノート』による子ども、ひいては大人に至る全体主義へと向かわせる文体的な力学を比較すると興味深いことが分かります。
・戦時下における命令口調。これは人を強制的(身体的・心理的)に統率するけれども反動的に反体制を生み出していきます。
・オウムのテロリズムによる断定口調。先行きの分からない不安の時代にあってこの口調はハマルひとは痙攣的にハマッてしまいます(心理的・補完的に身体的)。ダイレクトに無意識へ届けることのできる口調ですが、ハマらない人には意識下でシャットアウトされます。
・『心のノート』による当然口調。意識下での検閲が難しくすんなり無意識に届き、述べられた言葉は無意識と意識と行為を垂直に貫いていきます。

 当然口調の危険性は、無意識と意識を連結させてしまう点です。心ここにあらず、心機能の停止、自らが判断するという主体性が崩壊し、まさに死人の群れを作りだしてしまう可能性があることなのです。
 また、当然口調が作りだす限界線はその限界線に対して肯定的な生活をしているものになんら支障をきたすこともなく、かえって「自分は正しいのだ」という優越感(死人の優越)をもたらしますが、限界線に対して否定的な生活をしているもの、せざるを得ないものにとっては、屈辱感や自虐意識をもたらし、さらにドロップアウトを助長します。「家族みんなが幸せ」といっても、不幸せな家族もあるわけでその家族はその地点から生きていかねばならないのです。言うなれば、そこが主体的なゼロ地点の限界線でなくてはならないのに、全体的な限界線においてはマイナス地点であるという二重の基準に苦しまねばならなくなるわけです。
 排除するものは排除し、従えるものは統制していく(心理的統制のみで)。それを可能にしていく文体、それを凝縮したのが『心のノート』なのです。このノートの作成に著名な心理学者が関わっているのは、心を扱うからではなく心をどう統制していくかの点だったのかも知れません。
 心に限界線を引き、一つの価値基準以外をやわらかく排除していくこと。宗教でさえひとり一人の「心」を尊重することを守ってきたにも関わらず、『心のノート』はその領域を侵犯しようとしている。ノートによって認められた心以外は「心にノー」を巧みに突きつけていく。私はそのようなことを認めることはできません。

最後に『子どもプラス Vol.16』(特集の終わりに/斎藤次郎)を掲載して日誌を終わります。

「『心のノート』はいらないけど、でも心はとても大事なものです。美しい、おおらかな心だけが大切なのではありません。いじわるしたり、ウソついたり、いじけたり、泣きたくなったりする、そういう心も、丸ごと大事なのだと思います。
 心を大事にするというのは、よくはわかりませんが、少しゆったりして自分やほかの人のことを考えることだという気がします。いじわるやウソつきにも、みんな理由がありますし、そういうピンチをきりぬける方法がきっとあるはずです。
 元気がいいときはいいのです。意欲がなえ、バランスを崩し、調子が悪くなったときこそ、子どもの心が「大事にして!」と叫んでいるのに違いありません。そういう子どもたちに精いっぱい寄り添っていこう。
 この特集を組んで、私たちはまた改めて、ふつうのくらしの大切さを思うのです。」

単純な残酷さであること

「これははたして戦争なのか。」
 3月20日、米英(日本)側とイラクとの戦争が始まる。連日、テレビや新聞にて、戦地の状況、デモ、討論、記者会見が報道される。そのことに対し、知人は『最高の戦争映画』と皮肉った。なぜ、戦争映画においてデモが起きないのか。世論が動かないのだろうか。分かり切って忘れがちな事を、彼の言葉は立ち止まらせてくれる。また、私たちにおけるこうした情報は、発信者でない限り消極的であれ積極的であれ、受動的であるしかない。そして受動的である限り私たちはリアルであることができない。そこに情報操作の危険が孕まれている。そのことを避けるためには、私たちは常に情報の発信者となること、つまり戦争に対する明確な意思表示をすることが大切なのだ。リアルとバーチャルの境界が不透明な今日において、そのことは益々大事なことになってきている。けれど私たちも、ブッシュ大統領や小泉首相と同じく、情報の上にいることを忘れないようにしたい。そして、彼らとの違いは、彼らは外交(権力関係)という形態をとって戦争をする。というよりも外交(権力関係)のための戦争をしているようにしか思えないことだ。そして私たちは(権力関係)ではない、人と人の繋がりとして反戦を訴える。権力関係の本質はフェティッシュなものであり、それゆえ暴力に対して不感症である。それに対する私たちの人と人との繋がりは生や生活を基盤にしている。それは暴力を根本的に否定する。

「戦争状態とは」
 どこからどこまでが戦争なのか。多分、戦争は戦争をするものだけでなく反戦をするものも含まれている。私たちは直接的ではないにしても情報として戦争に否応なく参加させられる。そして戦争の内側に取り込まれてるからこそ、私たちはそれに「否」をつきつけるのだ。戦争のない状態、それは反戦のない状態でもあるのだ。

「一つの観察(戦争言語群の分布について)」
 先ほど述べた戦争状態についてを、少し違う角度からみてみます。私たちの見たり聞いたりする情報の中にどれほどの割合で戦争言語群が分布しているのか(正確にはこれらの言語群が受信体としての私たちに突き刺さってくるかどうか)によって戦争状態を把握することができる。イラク、バクダッド、フセイン、ブッシュ、ミサイル、地上戦、空爆、ニューヨーク、デモ、同盟、小泉首相・・・・・・。これらの言葉が日常性のなかに(飲みに行くとき、遊びに行くとき)、無差別に侵入してくる頻度と強度が戦争状態をつくりだしていく。また、戦争と親和力のない言葉までもが戦争という言葉に冒される。国の名は昨年まではサッカーと強い親和力をもっていた(これはこれでどうかと思いますが・・・・・・)のではないだろうか。これら「戦争」という言葉に取り組まれてしまった言葉を解放していくこと、そのことを戦争に対して否をとなえる物を書く人々は意識していくことが大切なのでしょう。

     誰にも渡れぬ川がある
     みなごろしにすればよい
     笑顔が消える

     誰も浸ることなき水がある
     みごろしにすればよい
     声が消える

     インドでは
     遠い地からカルカッタへと
     駱駝が人とともに歩いてゆく

     市場にはいつも女がいた
     市場にはいつも母がいた
               (「戦争」)

 私事ですが、詩を一編。
「9.11」以降、沖縄のひめゆりの塔を訪れ、戦争とは何なのかを考えてみました。けれど、言葉が売買されるこの国にいて書くだけの力量が私にはなく、戦争という言葉を外部からみつめられる場所を求め、今年の1月にインドへ行きました。戦争において「女」は母であること、姉であること、妻であること、働くこと、あらゆる立場を奪われて犯されてゆきます。この詩において不在である「男」は男であるという根元性を覆い隠して人(という欺瞞)の立場で破壊し「女」を犯していく。また、戦争において、決定権を持つ殺す者と殺される者(敵,味方)が奇妙な関係性の上、一緒の道を歩いていく。そして戦争という複雑に見えるものが、本当は単純な残酷さであることを訴ようと思って作った作品です。作品の稚拙なところはお許しください。

食指について

 ひとの手は美しい。
 老若男女問わず見とれてしまうことがある。ふと入った茶房で(ドトールなんだけどね)しばしの疲れを癒す。すると斜向かいのカウンターなんぞで女性がひとり、街ゆく人を眺め、肘をつきながらコーヒーカップを両手で抱いていますでしょ、それだけでわたくしはその奥方にきゅんとしてしまうのです。
 先日、仕事の合間、上司と休憩がてら喫茶店に入りました。まだ開店したばかりだそうでお客はわたくしたちだけでした。そのお店は旦那さんと奥さんそして娘さん夫婦の4人で経営をなされているそうで、若旦那はご不在でしたけれども若奥さんがこれまたもう御美人でして、そのうえ御美人と若旦那との間にお生まれになった一歳半の女児が御美人に抱っこされていたのですが、この子もまた、子役NO1になれるのではないかと思うほど愛らしく、《目に入れても痛くないほど》とはその通りだろうなぁっと思いつつ、《口の中に入れて飴玉のように転が》したらなんともはや、幸せで良いやなぁ、これからいそいそと通おうと思いつつ帰り際、ひょんなことから女児の手を握る許しを得ました。といっても一緒に来た子煩悩な上司が赤ん坊の手を握りたくて、けれども人見知りしそうな女の子だからまずは無精なおいらを先にさせて、女の子が怯えて御美人の後ろに小さなまあるい顔を半分覗かせぎみに後じさりしたのち、すかさず悪者を退けて自分が優しく女の子に手を伸ばし、一歳半のあどけない尊敬と愛情と友愛とともにかわいらしいお手手を頂戴しようという腹づもり。とは知りつつもウルトラマンいやサラリーマンたるもの上司には逆らってはいけないものであるというほとんどサブミナルおよび飴なし『鞭』の条件反射的に刷り込まれてしまった金科玉条の前では従うしか他ならず、というより情けないことに勝手にからだが動くんです。さらに付け加えるならいつの間にやらわたくしの顔面は心の暗雲とは裏腹に、『ニカッ』っとしているようでああ、わたしは心を真白な月のなだらな斜面に置き去りにしてしまったサイボーグなどと心よりも冷たい脳味噌にあるであろう精神で考えつつもわたくしの最も熱い下半身で謀反をクワダてようとしている魂は

 ああ、できることならあの御美人の手を握りたい・・・。

 とかなうはずもない思いに胸トキめかせつつ、さっ今わたくしに与えられた仕事は1メートル弱先できょとんとしている間抜け面、ゴホンエーッあらためまして1メートル先でまばゆく光る御美人のおみ足・・・ごめんなさい。1メートル先で愛らしく内股ギミに佇んでいる女の子でしたね、それでもってわたくしはその子のかわーゆいお手手を握ろうとすれば良いのですね。ああでもお母さんの背中に隠れてしまうんだろうな、いやはやその前に『ぎゃー』などと破廉恥に泣かれてしまったらどうしよう、そしたらわたくしのカワイイ女の子に差しのべた指先は折れ曲がって鼻くそをほじるしかないではないか。そして女の子があわよくば『げっはっは』もっと淑やかに『おほほ』と笑ってくれたら御の字、途方に暮れてそのままにしていたら年が明けるまで鼻くそをほじくっているであろうわたくしを横目にというより営業スマイル36年、付加価値今年3歳になるご子息とのスキンシップAクラスの肩書きをもつ余裕とともに斜め45度上目遣いの眼差しでわたくしをせせら笑いながらほらみたことかおまえじゃ無理だ俺の出番ださぁおどきっとなんともみじめな気分で『きゅー』っと呻きながら退散せねばならぬのであろうなっと思いつつおなごの手手を握ろうとした瞬間!子役NO1間違いなしの女児が小さな手を心持ち差しのべてくれたではないですかーそしてさらに『パチクリ』としたお目目と『ボヨーン』としたおくちでにっこり微笑みを返してくれああ此処は南国トロピカルハワイアーンと言う気分にひたりながらああわたくしもあと30歳若ければこのおなごと恋に落ちたのであろうなぁと少しセンチになりながらもいやさあと20年後ロマンスグレーと乙女の恋がまだ残されているではないかと気を持ち直したのである。
 とまあ人の手の美しさ、そしてその動きの妖しさ艶めかしさ辛さ悲しさを皆様にお伝えできたかと思います。ともあれ食指と言われる人差し指は指の配置の中でもたいそう優遇された位置にいるようです。わたくしはペンだこをつけた中指が好きなのですがその少し長めの中指に守られるように人差し指ははえていてそして突き指などをするのはいつも小指や薬指です。あまり苦労をしない指なのですが親指とともに物を掴む優先権を持っています。そして封建的な女性像を有したこの指のまさに特権は指さすことにあります。
 命令を下すとき、ひとのからだや物に触れようとするとき、魔女が呪文を唱えながら魔力を放出するとき、なにかを得ようとするとき、リピドーの最初の兆しリピドーの本源的形式、ギュスターヴ・モローの『出現』、腕をしなやかに伸ばしこの指がけだるそうに何ものかを指し示すとき、人の手は最も美しい。