御徒町通信
もう半年たちましたが、去年(2004年)の暮れに社屋が移って、明石書店は住所が文京区湯島から千代田区外神田に変わりました。といっても、以前の社屋から歩いて5分。通りを挟んで向かいは台東区上野という、ちょうど三つの区が互いに隣接する土地です。なお、湯島は現在、編集分室になっています。
わたし個人に限ってみれば、最寄り駅が御茶ノ水から御徒町に移ったことで、通勤の風景は一変しました。 (さらに…)
もう半年たちましたが、去年(2004年)の暮れに社屋が移って、明石書店は住所が文京区湯島から千代田区外神田に変わりました。といっても、以前の社屋から歩いて5分。通りを挟んで向かいは台東区上野という、ちょうど三つの区が互いに隣接する土地です。なお、湯島は現在、編集分室になっています。
わたし個人に限ってみれば、最寄り駅が御茶ノ水から御徒町に移ったことで、通勤の風景は一変しました。 (さらに…)
《前回の猫の恋につづき、今回はヒトの恋を……。まぁ連日暑いですし、きょうは夏休みに入って最初の日誌ということもあります。しばし仕事の手を休め、気楽にお読みください。》
中央線は美人車両として有名である。……かどうかはよくは知らぬが、毎日乗っていると、これはっ!という美人にときどき出くわすことがある。学生の頃は、そんな偶然にもいちいち胸をときめかし、その場でお付き合いを申し込まないと一生後悔するぞ、とたえず煩悶の僕であったが、近頃はそんなこともめっきりなくなってしまった。残念である。というのも、社会人となって4年目。覚えるべきことは雪だるま式に多くなり、寸暇を惜しんでの勉強。行きの電車の中では、現在の仕事と関係する本に目をとおし、帰りの電車では中国語の勉強を自らに課しているのだ。というわけで、最近は車内にキレイな人がいるなあ、と思ってもそれ以上は心を動かさず、すぐ自分の世界にもどる習慣がついていた。しかし、この日は違ったのだ。
僕の使っている駅は JR中野駅。そして会社の最寄り駅である御茶ノ水まで中央線で一本である。ところで、この日の暑さは度を超えていて、ホームで電車を待っているだけで汗がふき出してくる始末。なので、ようやく車内にすべり込んだあとは、しばしエアコンの風に身をまかせたい気持だった。窮屈な車内でようやく自分の立つ位置を確保すると、もはや到底読書する気は起こらず、今朝はこのままボッーとしながら、外の風景でも眺めながら行くことにしよう、と心に決めた。荷物を網だなに移し、汗をふきながら何の気なしに周囲を見まわすと、隣りに彼女は居た。
というか、さっきからつり革につかまる僕の腕に彼女の髪がふれ、僕はそれが故意でないことを示すために、わざわざ無理な姿勢をとらねばならなかった。ところが彼女のほうはといえば、そんなことに全然お構いなしにゆうゆうと新聞なんぞを広げている(それもオヤジ読みのようなセコイ真似はしない)。僕はすこしだけ腹を立てた。そこで、ウンと猥褻になってやろうと思った。……彼女はいましがた風呂から上がってきたように無造作に髪をとめ、白いうなじを出していた。耳には開いた花をかたどったやや大きめのピアスがのぞく。童顔だが化粧はしっかりしている。ゆるいスカートにスニーカーを履いているが、たぶん学生ではないだろう。また、どういうわけかこのクソ暑いのに、むらさき色の長袖カーデガンをはおっていた。しかし、これだけ無遠慮な視線を注いでいるにもかかわらず、彼女はまったく動じることなく、それどころかいよいよ熱心に新聞の国際面に目を走らせている。
ここにきて僕は彼女に対する見方を修正した。あんがい無邪気でかわいい人なのかも知れないと善意に解釈した。要するに彼女の風貌、身に着けているものすべてが僕の好みだったわけだ。そうこうしてる内に、電車は新宿に着く。乗客の多くが降りたが、彼女と僕はそのままだった。ところで考えてみると、電車の中で新聞を読んでいる人は意外と少ないように思う。たまにどんなに車内が混雑していようとも、新聞を読むことが我が流儀だといった困ったオヤジがいるが、リストラされてしまったのか最近見ない。代わりに男の人だったら漫画雑誌、女の人だったら単行本を読んでいる、というのが最近の僕の観察である(通勤時間帯だということもあって、さすがに朝から携帯端末に向かう者はあまり見られない)。もうひとつ気付くことは、女の人たちが持っている単行本に「○○市立図書館蔵」というラベルが結構貼ってあることだ。僕も図書館で本は借りるが、新刊書を持っている人間がほとんど見あたらないというのは、一体どう考えたらよいのか?
話が横道にそれた。そんなわけで僕の隣人は、近頃まれにみる“電車で新聞読む系”の女の子のようであった。そして相変わらず僕の目前には、彼女の新聞が大きく広げられている。読むつもりはなかったが、それでも自然に目に入ってきてしまう。バサッと音を立てて彼女が頁をめくると、そこには眼鏡の広告が載っていた。俳優の佐藤慶がインタヴューに答えている。僕は期するものがあって、すこし身を入れて読み始めた。というのも、佐藤慶はたいへんな活字マニアだということを何かの本で読んで知っていたからだ。新聞によると、佐藤慶は東京に出てきて俳優座の養成所で舞台の勉強をしながら、ガリ版屋で働いていたという。そこで活字の世界に魅了されたというのだが、なにしろ細かい作業の連続なので視力を悪くしてしまったのだそうだ。へぇー、あまりにもよくできた話だなと感心しながら読んでいると、突然彼女がこちらを振り向いた。
一瞬シマッタと思ったが、もう遅い。極度の羞恥心から恐る恐る顔を上げると、予想していたのと反対に、彼女はすこしも怒っていない。いやむしろ、声には出さなかったが、次の頁に行くけど構わない? という風にも思えた。しかし、それにしても彼女の表情は淡淡としていや過ぎないか?……そのことが逆に僕の不安を駆り立てる。彼女は憤りもせず、かといって微笑みもせず、じっと僕の目を見つめたままだ。その目は深い穴のようで光りはなく、何のサインも読みとれない。のみならず、彼女の顔は非常に美しかった。まるで月の上にでもいるみたいだ。僕はすっかりどぎまぎし、混乱した。
このあと四谷を過ぎ、われわれの前の座席が同時に空いた。ふたりは並んで座ったが、僕はずっと顔を上げられなかった。そして彼女もまた、もう新聞は読まなかった。僕は耐えられなくなって、カバンから本を取り出して読むフリをする。こんどは彼女のほうが僕をのぞき込む番だ。そのイタズラっぽい視線を肩に感じて、僕は恐くてたまらなかった。なぜなら、いまや彼女に嫌われることは、僕にとって耐えがたい不幸のように思われた……。こんなセッパ詰まった状態だったにもかかわらず僕の心の中はあんがい冷静で、遺棄された子どものような感情がやがて、明らかな恋情へと変わっていく過程を愉しんでいた。あぁ、こんな気持になるのもヒサシブリだなあー、などと。
いま思うと、彼女は僕をからかっていたフシがある。はからずもテリトリーをおかしてきた侵入者に対し、彼女なりのクールなやり方で応戦した。それは成功したとも失敗したとも言える。しかし、そんなことはどうでもいい。東京のような大都会のよさは、いまの彼・彼女にしか出会わないことだ。“いま”というこの瞬間に、輝やく美しさをふりまいていってくれた彼女に僕は感謝せずにはいられない。
路傍の愛人よ。
一瞬のまのビアトリチェ。
生涯の間にもう一度、あふ機会はおそらくあるまい。
俺が、彼女に捧げたものは、
決して、にせものの純情ではない。
かうして、俺は、生涯かゝつてつくつた大切なものを、
むなしく、つかひへらしてしまふ。
——金子光晴『路傍の愛人』から(岩波文庫、1991年)